(エッセイ)もうやって来ない未来、と「幸福」について(上)
だいぶ前に、NHKFMで大貫妙子がパーソナリティをつとめる『懐かしい未来』という番組があった。かつて20世紀に、みんなが空想した「明るい輝かしい21世紀のイメージ」というものが、いまや懐かしいイメージとして、逆に20世紀の象徴のようになっている、という逆説をこめたニュアンスだ。レトロフューチャーという別の言葉もある。失われた未来イメージの喪失感と虚無感は、いまでもわたしたちの無意識に共有されているとおもう。

未来都市のイメージは、わたしたちの子供の頃(1970年代~80年代)までは広く共有されていて、多くの人が未来は確実にそうなると信じ込んでいた。それがどうも怪しなってきたのが、バブル崩壊後の1990年代に起こった、一連の様々な事件(オウム真理教事件、阪神淡路大震災、神戸酒鬼薔薇の事件)だった。


1993年に、写真家の荒木経惟(アラーキー)が『都市の幸福』という写真集を出した。首都圏のニュータウンをテーマにした写真集だが、これは大規模開発による、郊外の新興住宅都市の風景と人のスナップ、そして荒木自身によるエッセイから構成されているが「均一化した、郊外ニュータウンにも幸せがある」という主張が明確だった。

1995年に、作家の島田雅彦は『忘れられた帝国』を上梓し、自分がかつて育ったありふれた郊外の生活や風景を「帝国」と名付け、記憶を元にノスタルジーとやさしさに溢れる物語に仕上げた。1999年に文庫本になった時の解説で、社会学者の宮台真司が「スキ間の場所が、どんどん無くなっていく」という趣旨のことを書いていた。宮台自身は1997年に『まぼろしの郊外 - 成熟社会を生きる若者たちの行方』」という本を書いている。


2004年には、評論家の三浦展が『ファスト風土化する日本 - 郊外化とその病理』という本で、日本全国で地域性が消滅し、おなじような風景(大型ショッピングセンター、コンビニ、ファミレス、カラオケボックス、パチンコ店など)が建ち並ぶ現象に警鐘を鳴らした。

郊外の単一化された「金太郎あめのような」風景の中にいると、倦怠を生んで疲れる。気がおかしくなってくる。「ファスト風土化された」郊外の街をみていると、地理感覚がおかしくなってくる。いったい自分がどこにいるのか、なぜここにいるのか、これから自分はどこに向かっているのか、分からなくなる。そして最後には、自分が生きている意味が分からなくなる。
下に続く・・・



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